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騎士の述懐

 - 22 -


 宿の前で馬車を降りると、スープかシチューと思われる香ばしい匂いが漂っていた。
「ああ、そういや腹減ったな。一仕事終えたところで何か美味いもんでも食いに行きてえな」
 ぐう、と分かりやすくジュアンの腹が鳴った。ついさっき人を丸焼きにしておきながら、もう食事に出かける気分になれる目の前の男の神経の図太さに改めて感服した。
「クリスの具合はどうだろうな」
 言いながら俺は宿の入口を抜け、レイチェルとクリスが泊まっている部屋の扉をノックした。暫く待ってみたが、返事はない。二人して眠ってしまっているのだろうかと思い、一言断りを入れてからそっと扉を開けてみた。
「……? あれ?」
「何だ、どうした」ジュアンが俺の背後から首を伸ばして部屋の中を覗き込む。
「いないな……二人とも」
 ベッドにもライティングデスクにもどこにも、女性二人の姿はなかった。俺は、昼食を取りに外出でもしているのだろうくらいにしか考えなかった。だが一方のジュアンは、「んだと!?」と俺の耳の後ろで大きな声を上げたかと思うと、俺の身体を押し退け、ずかずかと部屋の中へと入り込んだ。そしてすぐさまクリスが寝ていたベッドの傍に行き、旅行トランク等の彼女の荷物がそこにあることを確かめた。
「遠くには……行ってねえな」
 安堵するように呟くジュアンに、俺は苦笑しながら近付いた。
「先に二人でアルバドに帰ったとでも思ったのか? ちょっとそこらに食べに行ってるか買い物しに行ってるかってところだよ、多分」
 そこへ、「あれー、早いね。もう帰ってきたの?」と後ろから声がした。振り向くと、両手いっぱいに紙袋を抱えたレイチェルが部屋の入口に立っていた。
「お腹空いたからご飯買いに行ってたの。もう、この辺全然お店がなくってさ、随分先の商店街まで歩いちゃったから足がクタクタ」
「遠くまで歩いたからって以前に、それだけの大荷物を抱えてくりゃ疲れるに決まってるだろう」
 丸テーブルの上にどすん、と紙袋を置き、その中からパンやら缶詰やら菓子やら次から次へと取り出していくレイチェルを唖然と見つめた。一体何日分の食糧を買い込んできたのだろうか。すると、鼻歌を歌いながら作業を進める彼女に、「おい」とジュアンから声がかかった。
「クリスはどうした。一緒じゃねえのか」
「クリス?」レイチェルはきょとんと小首を傾げた。そしてベッドへと顔を向けた。「あれ、いないね。どこ行っちゃったんだろ。あたしがここを出る時はそこでぐっすり寝てたんだけど」
 ジュアンの表情がさっと険しくなった。「居場所が分からねえのか? 見張ってろっつっただろうが!」
 そのあまりに険のある物言いに、さすがにレイチェルもむっとした顔で反駁した。「あたしはね、看病はしていたけど見張ってなんかいませんでしたー。熱も少しずつ下がってきてわりと元気そうに見えたし、あたしみたいにお腹空かせてご飯でも買いに行ったんじゃないの? 歩けないくらい重病だったら今ここに寝てるはずでしょ。心配し過ぎ」
 彼女の言い分はもっともだった。それでもジュアンは口を開いて何か反論しかけたが、すぐに唇を引き結ぶと、今度は身体の向きを俺へと変えた。犯人を追う警官のような鋭い眼光が目の前に現れ、俺は何だ何だとたじろいだ。
「追うぞ」
「えっ?」
「探しに行くっつってんだよ。厄介なことにならねえうちに」
「厄介なって……」
 どういうことだよ、と訊き返す間はなかった。回れ右をしたジュアンは、駆け足で廊下へと飛び出していってしまった。一分一秒を争うかのような彼の焦り具合にレイチェルと顔を見合わせて困惑していると、慌ただしい足音がやかましく廊下を鳴らしながらこちらへと戻ってきた。そして、開け放ったままの扉の向こうに再び現れたジュアンは、「早くしろ!」と俺達をせっついた。早くも彼の息は荒くなっていた。
「おい、念のため剣を持っとけ。それから銃もだ」
「は? な……んでそんな」
 重装備で? と続ける暇はやはり与えてもらえず、俺に用件を告げ終えたジュアンの足音は瞬く間に遠ざかっていく。
「……何なんだ?」
「さあ?」
 再びレイチェルと顔を見合わせた。だが、あれだけ急いで部屋を出ながら、わざわざ俺に得物を装備するよう伝えに戻ってきたという点は無視できないものがあった。
 何が何だか分からないままではあったのだが、俺はひとまずジュアンの言葉に従うことにした。自分の部屋に戻り、隅の壁に立てかけておいた二本の剣を腰にぶら下げた。銃もアルバドを発つ際に荷物の中に入れてはおいたものの、流石に事態の委細も軽重も不明な段階で万全の装備というのも大袈裟に感じられ、やや迷いはしたものの、結局それは施錠したトランクの中にしまったままジュアンの後を追うことにした。
「ねえ、あたしも行く!」
 部屋を出ようとしたところで、レイチェルに呼び止められた。手には分厚い魔術書だ。それを横目に俺は首を左右に振った。
「いや、ここで待っててくれ。俺達が外に探しに行ってるのと入れ違いに、クリスが戻ってくるかもしれない」
「でも……」レイチェルは俺の剣に目を落とした。俺は再びかぶりを振った。
「心配するようなことは何もないって。大袈裟なんだよ、ジュアンが」
 後にこれらの選択は大きな過誤となるのだが、ジュアンの言葉が足りなかったことにすべての責任があると主張しておきたい。あのような脅威が迫っていると知っていれば、それこそ俺は命を覚悟の上で、そして迷うことなく銃を携え宿を飛び出したに違いないのだ。
「ジュアン! おい、待てって!」
 と叫んで彼が素直に聞くわけもなく、ジュアンは商店街へと続く道を駆け抜けながら、首を左右に動かし、狭い路地の一つ一つをもつぶさにクリスの姿を探して回っていた。レイチェルにはあのように言い残してきたが、アルバドールの国王ともあろうこの男がここまで必死な姿を露呈していることに、俺の心も漠然とした不安にじわじわと浸食されつつあった。何かあったのだろうか、クリスに。
 そこへ、
「っ! おい、クリス!! お前……!」
 ジュアンが怒鳴りながら走るその先に、こちらへと向かって歩いてくる人影があった。その姿を認めた直後、俺は走ることを止めた。息を整えるついでに、溜め息すら吐きたくなった。そら見ろ、やっぱり。買い物に行っていただけじゃないか――クリスの右手に小さな紙袋が携えられているのを見て、心の中でジュアンに毒づかずにはいられなかった。
「てめえって奴ぁ一度ならず二度までも……どこ行ってやがった! オレに断りなく勝手に出歩くなとあれほど……」
 息が続かなかったのか、ジュアンは言葉を切り、両膝に手をついてはあはあと肩を上下させた。彼の目の前に追いついてきたクリスの目は冷めていた。
「熱と入れ替わりに頭痛が酷くなってきたから、念の為と思って薬を買いに行ってたのよ。何なの? 血相変えて。アルバドが恋しくなって一人で帰ったとでも思った?」
「しらばっくれるんじゃねえ、七面倒な不安要素ぶら下げてるくせしてよ」
 これが何やら彼女にとって滅法癇に障る発言だったようだ。クリスは柳眉を逆立てた。
「……ご心配なく。逃げも隠れもしませんから」ぎくりとするほど低い声で彼女は言った。
 出会い頭に険悪なムードを撒き散らす二人のもとに、俺はゆっくりと、というよりおそるおそる近付いていった。彼女の目が俺を捉えると、「あなたまで?」と言わんばかりに呆れた眼差しで迎え入れられた。単に巻き添えを食っただけだと言い張りたかったが、ジュアンに言われるがまま帯剣までしてきた手前、言い訳できる立場でないことは明白だった。居心地の悪さを、咳払いをして誤魔化す。
「熱はもう下がったのか」とりなすように俺は言った。
「だいぶね」クリスは素っ気なく答えてから、俺とジュアンとを見比べて首を傾げた。「それにしたって、二人とも随分とお早いお帰りじゃない。ご馳走は? 食べてこなかったの?」
「呑気にもてなされてる場合じゃなくなったってこった」はあ、と大きく息を吐き、ジュアンは上体を起こした。そして俺を親指で指し示した。「バレちまったぜ、こいつに。色々とな」
「えっ……」
 クリスは瞬時に表情を凍らせた。ぎこちなく俺を一瞥してくる彼女に、俺もどういう顔で応じていいのか分からなかった。
「……どこまで?」
 彼女は、ジュアンに向き直って問うた。硬い声音にありありと緊張の色が滲んでいた。
「どこまでもここまでもあるか。ちっとでも知られちまった以上はおいおい全てのことを話していくっきゃねえだろ。中途半端な情報だけで何か変な行動をされちゃたまったもんじゃねえからな」
「全て……」
 恐々と、と形容すべき動作で、クリスは再び俺へと視線を転じてきた。この時俺は、彼女もアルバドールの情報隠蔽に少なからず加担していたのだなと悟った。あれだけジュアンとの親密な関係を見せつけられていた以上、もはや疑う余地もないだろう。
 ただし別の疑問が二つほど湧いてくる。単なる騎士見習いであるはずの彼女が何故王家の人間と国家機密を共有する立場にあるのか。また、何故身分を隠して一般社会に紛れ込むジュアンと行動を共にするのか。
 ジュアンが『用心棒』という意味で誰かを自分の傍に置くとするなら、彼女のような半人前の騎士でなく、もっと実力のある騎士が選ばれてもよいはずだ。むしろそちらの方が理に適っている。では彼女でなくてはならない理由が何かあるのか。あるいは――騎士見習いなどという肩書きは嘘で、彼女もまた、ジュアンと同じく俺の知らない別の顔を仮面の奥に隠しているのか――
 そのような可能性を疑った時だ。まるで狙いすましたかのようなタイミングだった。実際、そいつは物陰に潜んで隙を伺っていたのだろう。
 突然近くの路地から何かが飛び出してきた。最初、黒い大きな塊のように見えたそれは人間だった。漆黒のマントで全身を包み込み、顔すらも半分が目深に被ったフードに覆われていた。男女の別が分かったのは、そいつが矢のような速さでこちらへと突き進んできた時だ。
 フードが外れ、隠されていた顔が露になった。男だ。しかし俺の目は、彼の手に黒光りする刃が握られているのに気付いてから、他のことに全く注意を向けられなくなった。じわりと全身に脂汗が滲むのを感じた。
「……っぐ……」
 直後、自分のものか他人のものかも分からなかったが、とにかく短い呻き声が近くで発せられたのを認識した。たまたま付近を歩いていた若い女性が、悲鳴を上げながら一目散に去っていく。

 気が付けば男がすぐ傍に立っていた。具体的な立ち位置としては、クリスの真後ろだ。俺と向き合うような形で立っていたジュアンとクリスは、背後からの来襲者を感知できずにいたようだった。
 そいつの存在に気付いたジュアンは、目玉が零れ落ちるのではないかと思うくらい大きく目を剥いた。その次の瞬間には、俺も同じような顔をしていたに違いなかった。
 クリスの下腹部から、黒い刀身が突き出していた。赤い液体が剣先を伝って地面に滴り落ちる様子を、俺は観察でもするかのような目で目視し続けた。放っておけば延々とそうしていたであろう腑抜けた俺を我に返らせたのは、ジュアンの怒声にも似た叫び声だ。
「ディルク!!」
 彼の行動は早かった。武器を所持していないジュアンは、素手でその男を殴りにかかった。男はジュアンの拳を避けるため、クリスの身体から剣を引き抜き、後方に飛び退って間合いを取った。その拍子に地面にがくんと膝をつき、そのまま倒れ込もうとするクリスの身体を、俺は殆ど無意識のうちに受けとめていた。
「クリス、おい、大丈夫か……」
 お前の方が大丈夫かと心配されそうなぐらい、頼りない声を出していた自覚がある。
 クリスは目を開けていなかった。もとより白い顔が更に青白く、徐々に血の気が失せていっている様子がありありと確認できた。創傷を負った箇所から、とめどなく鮮血が溢れてくる。だがこの時俺は、応急処置の知識も経験もあるくせに、何の行動も起こせなかった。本能的に察していたのだと思う――これほどの出血量では、止血が追い付かず、助かる見込みはほぼ絶望的であろうことを。
「久し振りだな、クリス」
 男が声を発した。意識不明の彼女の耳に、自分の声が届いているのを確信しているような口ぶりだった。
 俺は顔を上げ、改めてそいつの顔を見やった。そして血に濡れた手で自分のコートのポケットを漁り、くたくたになりつつあるその四つ折りの紙を取り出した。
 髪は烏の濡れ羽色。それをぴしりとオールバックにした様は、まるで社交界の若き花形紳士だ。精悍な顔付きがそのイメージを更に後押しする。いつぞや似顔絵は当てにならぬとアガプキンが言っていたのを思い出したが、なるほど確かに、手元にある凶悪な顔付きとは似ても似つかぬ風采ではあった。
 ディルク・ナルディス。こいつがそうなのか。勇者の命を狙っているという殺人騎士。そして、クリスの心の在り処。こいつが――
「逢いたかったぜ、ディルク」
 ばきばきと指関節を鳴らしながら、ジュアンが不敵に口の端を上げた。「四六時中てめえのことを考えてたぜ。てめえの大好きな餌ぶら下げてふらふらしてたってのに、食いついてくるのが遅かったじゃねえか」
「失礼ながら、私は貴方のことなど眼中にありませぬ、ユリウス様」
 声まで惚れ惚れするバリトンで、奴――ディルクはきっぱりと告げた。「逢いたかったのは、愛する彼女一人だ」
 奴の目の焦点が、クリスから俺へと定まったのが分かった。邪魔者を排斥せんとする強い意志と強烈な敵意が、刃のように突き刺さってくるのを感じた。この場にじっとしていれば、向こうに立っているあの男が俺を切り殺しに走ってくるであろうことが容易に予測できたはずなのに、俺は逃げることも応戦の構えを取ることもできずにいた。何しろ混乱の渦中にあったのだ。『愛する彼女』などと臆面もなく言ってのけたこの男に、何故クリスは突然刺されなければならなかったのか。そもそも奴が殺そうとしているのは勇者という話であり、それ以前に恋人との感動の再会をこのような過激な演出で作り上げる意味が全く分からない。
 だが、そのような疑問も次第にどうでもよくなった。クリスを支える自分の両手を通して、彼女の体温が大量の血液と共に急速に失われていくのを感じていた。脈を取りたいと思う反面、怖くてそれができなかった。返事もしない、ぴくりとも動かない彼女を、『気を失っているだけ』と必死に思い込もうとしている自分がいた。
 そのような状態の俺に戦意の欠片もないことを、ジュアンは即座に見抜いたようだ。苛立ちを込めた舌打ちを一つした後、彼はコートのポケットから何かを取り出し、手の中に握った。一瞬だけちらりと見えたそれは、飴玉ほどの大きさの透明なガラス球のように見えた。続けて、
「我が右手に光の剣を!」
 絵本の中に出てくる勇者のような台詞を吐いたかと思うと、ジュアンの右手の中から強烈な白光が溢れだした。それはたちまち白く長く、棒のように伸び、光を放ったままジュアンの手に存在し続けた。
「ふっ……さすがはユリウス様。相変わらず、アルバドール随一の封魔石の使い手でいらっしゃる」
「くだらん世辞なんかより、てめえが今すぐ用意すべきは両親への遺言だ……っ!」
 言い終わらぬうちに、ジュアンはディルクへと向かって駆け出していた。「安心しろ、首はアルバドールに持ち帰ってやっからよ!」
 交錯する黒い刃と光の刃。互角に、とは言い難かったが、どこにそんな技量を隠し持っていたのだと訊きたいくらいジュアンは殺人騎士の猛撃を躱し、あるいは剣で受け流し、何とか奴の隙を狙おうと敢闘していた。
 俺は火花が散るその激しい剣戟を、まるで何かの芝居でも鑑賞しているかのような感覚で見ていただけであったのだが、いつまでも観客という立場ではいさせてもらえなかった。やはり力量の差というものは気合いだけでは埋め難いということだろう。ジュアンの健闘はそう長くは続かなかったのだ。
「ぐあっ!」
 ディルクの足に蹴り飛ばされたジュアンの身体が、二、三地面をバウンドしながら信じられないほど遠くへ転がっていく。殺られたのかと一瞬心臓が止まりかけたが、脇腹を押さえながら苦し気に身体を起こそうとしているジュアンの様子を見て、俺は深く息を吐いた。
「そこの者」
 だがその低い声と同時に、俺の全身に再び緊張が走った。ディルクの切れ長の目がこちらを見ていた。一戦交えた直後だというのに、奴は呼吸一つ乱していない。
「今すぐ彼女を解放し、この場から立ち去れ」
 奴は落ち着いた声で俺に命じた。そして鈍く黒光りする剣を構えながら、こう脅しを続けた。「聞き入れられぬというのであれば、私も手段を問うていられなくなる。せめて苦しむことがないよう手短に終わらせてやるつもりではあるが、お前が暴力的な所作でもって抵抗するようであれば今の言葉の限りではない」
「……っ」
 これ以上クリスをどうする気だと問おうとしたのだが、口を開くことはできても声に出すことができなかった。
 怯えていたわけではない。俺の心はそれとは違う言葉を叫びたがっていたのだ。
 もともと俺は、この男を殺す覚悟を決めていた。まともに戦って勝てる見込みはないにしても、勇者を殺すなどという蛮行を許せる道理はないし、滅びゆく世界を前に俺という人間が何か一役買えるとするならば、この悪人の抹殺を試みることくらいしか思いつかなかった。
 とはいっても果たして俺は、これらの建前をどれだけ意識していただろう。
 頬に何かが当たった。水だ。自分の目から零れ落ちたものかと思ったがそうではなく、雨が降ってきたようだった。土砂降りとまではいかずとも、結構な雨脚でもって空から降り注いできた冷たい水は、その場にいる全員を平等に濡れ鼠へと変えた。俺の手の中のクリスの身体は、もはや蝋人形のように冷たくなりきっていた。
 俺はぐったりとしたその身体を濡れた地面に横たえ、ざあざあと地面を打つ雨音を耳にしながらしばし放心した。一見しただけでは依然彼女の生死は不明だったものの、時間の問題であることは明白に思われた。足下の血だまりが、雨水を含んで地面に大きく広がっていく。
「美しいだろう」
 その声は、妙に厳かに俺の心に響いた。「私の……俺のものだ。誰にも渡さない。国にも、世界にも……」
 一呼吸置き、「お前にもだ」

 ――その瞬間、何かがぷつんと切れた。これまで辛うじて繋ぎとめていた理性の糸とでも言えば良い。気が付いた時には俺は奴の目を睨み据え、獣が唸るような声で心の中にあったその言葉を発していた。
「殺してやる……!」
 やおら立ち上がり、双剣を鞘から引き抜く。生まれて初めて殺意という感情を発露して剣を握るわけだが、何の躊躇もなかった。こいつを殺してやれれば本望だし、逆にこちらが殺されたって構わない。どのような結果になろうと、じきに彼女がこの世界から消えてなくなるという事実は覆せないのだから。
 『化け物並に強い』との前評判を聞いていたこの男に対し、俺は馬鹿正直に真正面から攻撃を仕掛けにいった。瞬殺されて終わりかと思いきや、俺が振り下ろした二本の刃とそれを受け止めた奴の刃は、甲高い金属音を響かせた後じりじりと拮抗を続けた。
「ほう……」
 すぐ目の前にある奴の整った顔が、微かに歪んだ。刹那、あの似顔絵の顔が重なって見えた。
「お前は何者だ? クリスとはどういう間柄だ」
「会社の同僚だ」
 それ以上でも以下でもない自分の立場とこの男の立場との違いにはっきりとした嫉妬を覚えたが、詮無いこととそれを振り切り、一度間合いを取って改めて斬りかかりにいく。が、当然のことながらまたも同じように剣で防がれた。俺がよほど親の敵のような目をして奴を睨んでいたのか、あるいは雨で濡れた頬を涙の跡と勘違いしたのか、奴は微苦笑を浮かべて俺を宥めるように言った。
「まあそう興奮するな。やや手荒な方法ではあったが、じきに目を覚ます」
「どの口がそれを言いやがる……!」
「私が彼女を刺したのは、ああいう状態にしておいた方が一何かと都合が良いという理由だけだ」
 意味を理解しかねている俺に、奴は続ける。
「あいつは良くも悪くも昔から正義感が強いからな。自分を守ろうとしてくれない世界なんぞ守らんでいい、そう言い聞かせても一向に聞く耳を持たない。ああやって静かに眠らせておかないと、おちおち駆落ちもできやしないわけだ」
「……っ!」怒りのあまり言葉が出てこなくなった。この男はどこか頭がおかしいのではないか。
「その様子からするに、お前も彼女に惚れている口だな」
 不躾極まりない質問に答える義理などなかったが、俺が渾身の力を込めて振り下ろした剣を奴は答えと受け取ったらしい。「図星か」と唇を緩めると、俺の剣を受け止めたまま、ぐいと顔を近付けてきた。息がかかりそうなほどの至近距離だ。ディルクの鳶色の瞳の中から、奴の似顔絵に似た凶悪な形相の俺がこちらを睨んでいる。
「ならば、理解できぬか? 彼女をどこか遠くへ連れ去ろうとする私の行動が」
「恋人を死体にして拉致する行動をか」
「死体?」奴は虚を突かれた顔をした。「ひょっとするとお前……知らされていないのか?」
 何を、と訊く気にもならなかった。俺の頭の中は、一刻も早くこの男の息の根を止めることだけで占められていた。
 だから、すぐにはその言葉が頭の中に入ってこなかった。
「……クリスは勇者だぞ。臓器を二つ三つ損傷したくらいでは死なんさ」
 ――危うく剣を取り落としそうになった。その事実を告げられた時に奴が一瞬だけ見せた切なげな顔を思い出すと、俺は今でも心にちくりとした痛みを感じる。
 分かるからだ。恋人が勇者であるという事実と向かい合わねばならなかった、この男の気持ちが。とはいえこの時は突き付けられた事実を消化するのに忙しく、とても奴の気持ちを汲んでいるどころではなかったのだが。
「お前は、彼女が勇者としての務めを果たすことを望むか。どのみち大勢の人間がこの世から消えることにはなるのだろうが、彼女は自分の命をフォービドゥンを消すための道具として使われることになるのだぞ」
「出てきたフォービドゥンを始末しねえと、にっちもさっちもいかねえだろうが」
 ディルクの向こうから、ジュアンの声がした。まだ立ち上がるのに苦心しているようで、時折咳込みながら呻くように声を発している。
「フォービドゥンはな、アルバドに出現すんだよ……。まるでアルバドールを外敵から守るように、奴は世界中を壊滅させる。その後大人しくどっかに消えてくれりゃあ世話ねえが、奴はどこにも帰っていかねえし攻撃の手を休めもしねえ。放っときゃ馬鹿の一つ覚えみてえにひたすらあちこち滅ぼし続ける。そうなりゃアルバドの外で運良く生き延びる人間なんかもいなくなる。残されるのはアルバドという街と住人と、アルバドに居座って延々と世界中を攻撃しまくる化け物だけだ。そんな世界で真っ当な暮らしが続けられると思うか? 文明を築き直すことなんかできると思うか?」
「だから厄介な化け物を片付け、太平の世をもたらすためにクリスという『生贄』を使おうというわけだ、アルバドールという利己的な国は」
 ふっ、とディルクは皮肉げに笑ったかと思うと、受け止めていた俺の剣を払うように大きく腕を振った。目の前にいる男が敵ということも忘れ、呆然と彼らの話に聞き入っていた俺の手の中の剣は、あっけなく持ち主の手を離れて虚空へと舞い上がった。数拍の後、からんからんとどこか離れた場所で音がした。
「『勇者』などと、聞こえの良い言葉と都合の良い英雄譚を作り上げたものだ、かつてのアルバドール王家の連中は」
 ディルクの目は俺に向いていたものの、語りかけている先は背後にいるジュアンに違いなかった。声には憎しみが籠っていた。「そうして世界中を騙し、自らもフォービドゥンの脅威に怯えるふりをしながら、これまでに何人もの『勇者』を犠牲にして彼ら以外に手に負えない強大な厄介者を始末してきた。――当代のアルバドール王家も、同じ歴史を刻もうとしているようだが……」
「そうはさせねえ、ってわけだろ?」ジュアンが光る剣を支えにしながらよろよろと立ち上がった。「オレだって同じ気持ちだ。クリス一人に犠牲を強いるなんて真似はしたくねえ。だからアルバドール国王として全力で奴に挑む覚悟を……」
「違う」奴は強い口調でジュアンの言葉を遮った。「貴方と私が向いている方向は違う。それは貴方も自覚しているはずだ」
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