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騎士の述懐

 - 25 -


 全身鉄の塊のような物々しい甲冑姿の衛兵四人に、その扉は守られていた。
 果たして人の力で動かせるのかと思うほどばかでかい、鉄製の扉である。表面には華美で緻密な模様のレリーフがびっしりと施され、この先に待ち構えている人物の地位の高さを物語っているようだった。
 アルバドール城の謁見の間は、よほど特殊な事情がない限り一般人の立ち入りは許可されない。だが、セヴェスタに先導されながら歩いてきた俺とレイチェルは、城門脇の検閲所を通過して以降、誰からも何のお咎めもなくすんなりとこの扉の前まで辿り着いてしまった。
 隣にいるレイチェルが、いつになく神妙な顔付きで両手をぎゅっと握っているのが横目に見えた。緊張していたのだろう。たとえこの先にいるのがジュアンだと分かってはいても、国王との謁見など人生においてそうそう遭遇するイベントではない。かく言う俺も、掌にうっすらと汗が滲んでいるのを自覚していた。普段着で来てしまって良かったのかと、今更ながらちらりと不安がよぎる。
 セヴェスタが、扉を塞いでいる衛兵の一人に軽く目配せをした。たったそれだけの所作で、衛兵達はがしゃがしゃと派手に鎧を鳴らしながら素早く扉の脇へと避け、謁見の間へと通じる道を開けた。そして、衛兵の二人がそれぞれ扉の取っ手に手をかけ、見るからに重そうな巨大扉をゆっくりと手前に引き開けていく。
「わっ!」
「ひゃあっ!」
 と、突然背後から脅かしてくる声。レイチェルは頓狂な声で悲鳴を上げて肩を跳ねさせた。驚いて振り向いた先には、今まさに謁見の間でお目にかかろうとしていた人物が、おどけた調子で両手をひらひらさせて立っていた。
「ジュアン……」
「陛下」
 肝が据わっているのか、それとも彼のこうした行動には慣れきっているのか、セヴェスタは自身が仕える男の変則的な登場の仕方にも眉一つ動かさなかった。
「何やってんだよ、こんなとこで」ジュアンが不思議そうな眼差しを投じてくる。
「それはこちらの台詞です」
 怒るでも呆れるでもなく平坦な目でセヴェスタは王――ジュアンを見返した。「国民との引見においては謁見の間で執り行われるべし、という城令をご存知でしょう。それにその格好……僕が戻るまでにちゃんと正装しておいてくださいって言ったじゃないですか。城内は貴方にとっての職場だといつも申し上げているはずです。他の官吏達と同じく定められた服装をお守りください」
 へらへらとしまりのない顔でセヴェスタの苦言を聞き流しているジュアンは、よく見慣れた黒色のコートという装いであった。ただしいつものジュアンと一つだけ異なるのは、普段は首の後ろで束ねている長い髪を、頭の上の方でポニーテールにしている点だ。
「鬱陶しい補佐官だろ」ジュアンが俺に耳打ちしてきた。「こんなのに四六時中付き纏われてああだこうだとお小言を頂戴せにゃならんオレの身にもなってみろ。外にとんずらしたくもなるって話だぜ」
「小言ではありません。僕はあくまで忠言させていただいているだけです」
 耳聡くジュアンの愚痴を聞きつけたセヴェスタがすかさず反論すると、ああもう、とジュアンは髪を掻きむしる。
「あのなあ、同じ釜の飯を食ってる連中に今更畏まって謁見だの正装だの……オレが王冠被って玉座にふんぞり返ってたところで、こいつらにとっちゃお笑い種でしかねえわ。ったく、規則、規則っていつも呪文のように唱えやがって、お前の辞書には融通って言葉はねえのか」
「規則と融通という言葉に親和性はありません」
 随分と忌憚なく物を言う少年だな、と両者のやりとりを見ていて感じた。ジュアンへの敬意を欠いた振る舞いについては俺も人のことを言えないが、セヴェスタについてはジュアンとの立場の違いだけでなく、そこそこ開いた年齢差も加味すべきであるはずだった。ただの年若い官吏と青年国王という間柄では説明できない何かが二人の間には存在するのだろうかと考えた。
「それでは、僕はフロスト区の水道管修理の件で業者と打ち合わせがありますので、こちらで失礼させていただきます」
「あいよ。ご苦労さん」
 一礼して踵を返すセヴェスタを見送った後、ジュアンは俺達へと向き直った。
「そんじゃ、クリス嬢の元へとご案内するとしますかね」
「あのセヴェスタって子は何なの?」
 ワイン色の絨毯が敷かれた廊下を進み出すと同時、レイチェルがジュアンの横に並ぶやいなや、早速気になっていたことを訊ねた。
「あたしと同じくらいの歳でしょ? それなのに王様の側近だなんて、あいつ何でそんなに偉いわけ?」
「別に偉いってわけじゃねえけど」苦笑交じりにジュアン。「あいつは城の長老みてえなもんだ。博識だし、物事の道理ってもんも人一倍わきまえてる。長生きも伊達じゃねえってことさ」
「? 子供だろ、まだ」
 言いながら、俺は肩越しに背後を見た。長い廊下の先へと小さくなって消えつつある赤毛の後ろ姿は、明らかに少年そのものだ。
「見た目はな」ジュアンはふいに声に影を落とした。「だがあいつの実年齢は、オレ達の想像をはるかに超えている。もはや正確な年齢は本人すら憶えているかどうか怪しいが、少なくとも千三百歳は下らないはずだ」
「千……三百歳!?」
 レイチェルと同じ台詞を、俺も心の中で叫んだ。思わずもう一度後ろを見るが、廊下を曲がってしまったのか、もう少年の姿はない。
「ど、どういうことなの? あの子、人間じゃないってこと?」
「人間だ」
 きっぱりと即答するジュアンの横顔に、一瞬だけ怒りに似た感情が迸った気がした。やや大股の歩調にも、何かに対する苛立ちが込められているようだった。
「あいつは、勇者と同じ……この世界にかけられた呪いの被害者みてえなもんだ」
「呪い……」
「歴代の勇者は、ジャスティシアと呼ばれる一族から輩出されてきたってのは有名な話だろ」
 ああ、と頷く。「クリスもその血を引いているってことか」
「そう、そしてあいつもそうだ。セヴィもジャスティシアの末裔だ」
「ジャスティシア一族っていうのは、みーんな不老長寿だっていうの? 神話の時代にいたエルフみたい」
 いいなー、とレイチェルは羨むが、ジュアンは黙って首を横に振った。
「ジャスティシア全員が人間離れした寿命を持って生まれてくるわけじゃねえ。あの特性は、何つーか……血が濃くなり過ぎた時に現れることがあるみてえだ。前例も記録も少ねえからはっきりしたこた分からねえが」
「ひょっとして……」血統を重んじる部族等にありがちな話が脳裏に浮かんだ。「近親婚を繰り返してきたツケか」
「多分、そういうことなんだろうな」ジュアンはコートのポケットに両手を入れ、顎を引いた。「時代が流れると共にジャスティシアの血が薄れ、やがては勇者が生まれなくなるんじゃねえかってことを危惧したんだろう、かつての国の連中は。だから同族同士の婚姻を強要して、なるべく多くの子孫を残すよう命じてきた。兄妹同士で、なんて話も昔じゃざらだったそうだ。だがある時を境に、数百年に一度くらいの頻度で妙な子供が生まれてくるようになった。そいつは赤色の髪と目を持っていて、妙なことに一定の年齢に達すると外見上の成長が止まっちまう。その上恐ろしく長生きときてる」
「何か、その特徴だけ聞くとその子が勇者みたい」
「そう思うだろ?」と、ジュアンはレイチェルの鼻先に人差し指を突き付けた。「だが、あくまでも勇者ではねえんだ。そういう子供が生まれて生きている時代にフォービドゥン出現の年を迎えても、その人間とは別に勇者がいた……ちょうど今、この時代にクリスとセヴィがいるみてえにな」
 勇者であるか否かの判断は、あくまであの桁違いの自然治癒力の有無によるということであるらしかった。
「でも、『被害者』ってどういうことなの? 別に人より長生きなだけで、悪いことなんて一つもないじゃん。むしろ若いまま長く生きられるなんてラッキーだよ、あたし的には」
 ジュアンは即答せず、レイチェルから顔を背けて唇を引き結んだ。盗み見たその横顔は、何か苦いものを口に含んでいるかのような渋い表情だった。
 ねえ、とレイチェルに催促されて、ジュアンはようやく重そうに口を開いた。
「……文明がどれだけ進歩しても、いつだって人を見かけで判断したがる奴はいる。黒髪と金髪の両親から血の色の髪と瞳を持つ子供が生まれたってだけでまず寄って集って不吉なもの扱いして、おまけにその不老長寿の特性で化け物呼ばわりだ。閉鎖的な環境で暮らしているジャスティシアの間には、いまだに異質な存在に対する差別意識が根強く残っているし、中にはそういう子供を物理的、精神的に迫害する奴だっている」
「何それ……」レイチェルが眉を寄せ、低い声で呻いた。
「セヴィをオレの側近として迎え入れてもう五年近く経つが、オレはいまだにあいつが心から笑った姿を見たことがねえよ」
 ジュアンについて長い階段を下りながら、俺はセヴェスタのあの感情の灯火が消えたかのような淡泊な表情や喋り方を回想した。周りからの理不尽な仕打ちに対する悲しみや苦しみから逃れようと感情を封じ込めたのであろうあの少年の積年の辛苦は、察するに余りあった。
 ひたすら階段を下り続け、地下三階と思しきフロアの廊下を進んだ突き当りでジュアンは足を止めた。目の前に現れたのは、衛兵に守られた鉄格子の扉だ。その奥には横開きの扉。それは昇降機であったのだが、庶民にはあまり馴染みのない設備であるため、すぐにはそれと気付かなかった。
 ジュアンがポケットの中から取り出した鍵で鉄格子につけられた南京錠を外し、奥の昇降機に乗るよう俺達を促した。三人が乗り込むと、その小さなかごは下へと向かって動き出した。
「凄いな……まだ更に地下があるのか」
 感心して呟いたものの、下降を続ける昇降機は加速する一方で、一向に止まる気配を見せない。次第に不安になってきた。一体どれほど地下深くまで連れていくつもりなのか。そもそも現在の土木技術でこんなにも地上から遠ざかることができるものなのか。
 しかしそんな不安は、ようやく昇降機が停止し、ジュアンを先頭にかごを降りた瞬間、大きな驚愕へと変わる。
「わあ……! すっごおぉーい」
 レイチェルが感嘆の声を上げ、大きな瞳を輝かせた。俺は感動よりも驚きの方が勝っていて、ぽかんと口を開けたまま、身じろぎ一つできずにいた。
 広いホールには多数の人間が行き交い、まるで中心街の一角を切り抜いたかのような賑わいだ。といってもフロア全体を照らす光は壁材となって組み込まれている発光石だし、右に左に流れる人々は皆城の官吏や兵士、あるいは多くの一般職員達といった様相であるから、やはりここは地下、そして王城区域内なのだと実感させられる。
 高い天井には荘厳なシャンデリアが吊り下げられ、正面奥の壁にはアルバドール王家の紋章が金糸で刺繍された巨大なタペストリーが威厳を放っていた。陽の光とは違う、淡く暖かい色味の発光石の光がそれらを高貴に演出し、これぞ王城という厳かな雰囲気を醸し出すことに成功している。下手をしたら今しがた通ってきた地上階以上に荘厳で華美な内装には戸惑いすら覚えた。
「お前らに一つ、命じておく」
 そう言いざま振り向いたジュアンは、声音も面構えもその存在感すらも『ユリウス王』へと変貌していた。彼は順繰りに俺とレイチェルと視線を合わせてから、人差し指を自分の口元へと持ってきた。
「ここで見聞きしたことは、口外厳禁でよろしく頼むぜ」
「またかよ」
 何かと秘密が多い国だな、と揶揄すると、ジュアンは片目を瞑って苦笑した。
「どの国も秘密だらけってことなんざ、お前さんも今に知った話じゃねえだろうが」


 昇降機を降りて目の前のホールは、アルバドール城の深層階におけるエントランスの役割を果たしているようであった。
 ホールからは六本の通路が放射状に伸びていた。実はアルバドの地上においても王城を中心に六つの街路が放射状に走っており、それを模した地下のこの造りは何らかの暗喩なのかと勘繰りたくなる。
「ねえ、ジュアン。あれって……」
 六本の通路のうち、第三ガレリアと呼ばれるらしい太い通路を進んでいた時だ。レイチェルが指で指し示した先へと目を向けるより前に、俺はこの場にはやや似つかわしくない香りがどこからともなく漂ってきていることに気付いていた。
 焼き菓子を作っているような甘い匂いがするのだ。
「ああ、ケーキ屋だ」
 しれっと言い放ったジュアンだったが、聞きたいのはそんなことではない。何故地下に、というより城内にケーキ屋があるのか。『パティスリー・シーズン』と書かれている木製の看板の下、ショーケースの中に様々なケーキが陳列されている光景を俄かには受け入れることができない。
「ケーキ屋だけじゃねえぜ」ジュアンは続ける。「ベーカリーもレストランも雑貨屋も、何なら理髪店だって本屋だってある。生活する上で必要になる物やサービスは一通り網羅してる感じだな」
「商売……として提供しているのか? 城の人間が?」
「そうだ。この深層階全体が、一つの街のような機能を有していると言ってもいい。規模としちゃ地上のアルバドの街を十分の一くらいに縮めた程度ってところだな。床面積もそれと同じくらいはある」
「すごい!」興奮を抑えきれない様子のレイチェルが発した大声は、壁中にこだました挙句周囲の人間の注意を一斉にこちらへと引き付けた。「アルバドール城の地下にこんな場所があっただなんて信じられない! あたしの時代にも誰か知ってる人いるのかな!? てかまだ遺ってるのかな!?」
「この場所が未来にまで遺っているかどうかは、フォービドゥン次第ってところになるのかもな……」
 どこか遠い目をして意味深なことを呟くジュアンだったが、俺にはとにかく訊きたいことがあった。
「何のためにこんな場所を造ったんだ」
 ともすれば昂りそうにそうになる気持ちを落ち着かせるため、ジュアンの視線を受け止めてから次の言葉を繋げる前に一呼吸挟んだ。
 こんな地下深くにこれだけの規模の空間を造るには、相当な年月がかかったはずだ。何百、いや何千年という単位で、地道にこの深層階を拡張していったのだろう――国民に内緒で。
「フォービドゥンの攻撃から逃れるため、ではないんだよな。何せ奴はこの街に現れはするが、この街への攻撃はしないって話なんだろ」
「まあ、そうっちゃあそうなんだが……」全く関係のない方向を見ながら話すジュアンの歯切れは悪かった。「けどあの巨大な化け物には、人や建物を踏んづけねえよう歩いてくれるほどの配慮は望めねえ。んなもんだから、アルバドに住んでいるからといって誰もが絶対安全って保証はねえ」
 やっぱりか、と俺は奥歯を噛み締めた。悪いのはこいつじゃない、と自分に言い聞かせたが、俺の手は今にもジュアンの胸倉を掴みそうになっていた。
「つまりはフォービドゥンにうっかり城ごと踏み潰されても生き延びられるように、こんな避難場所を設けてたってことか。いずれ訪れる危険は国民には知らせず、自分達だけちゃっかり安全圏を確保しながらのうのうと暮らしてきたわけだ」
「んー、でもさあ」俺の怒りを中和させるかのように、レイチェルがのんびりとした声で割って入ってきた。「昔この街にフォービドゥンが出てきた時、街の人達もそれを見てるわけでしょ? ならその時のことを後世の人達に口承していくのが普通じゃない? なのに何で今の人達は皆そのことを知らないんだろ」
「箝口令でも布いたんだろ、どうせ。当時の王城が」横目でジュアンの反応を窺ったが、彼は真一文字に口を結んだままだった。「毎度毎度この街にフォービドゥンが現れるってことが、万が一にも他国に悟られたら大変だ。当時のアルバドの住人も、自分達の安全領域を子孫に遺してやりたい気持ちがあったのかもしれない。だから黙ってろという国の命令に従った」
「この街の人はそれでいいとしても、当時たまたまアルバドに来ていた他の街や国の人達は? どう黙らせるの?」
「単純な話さ」観念したのかそれとも開き直ったのか、ジュアンは俯きがちに答えた。「出国を禁止したんだよ。国に帰るっつっても、街道なんて跡形もねえし、どうせ故郷も家族も全滅だ。だから実際にはアルバドに留まるしかなかったんだろうけど、それでも衛兵の目を盗んでアルバドを出ようとした奴はいた」
「そういう人達は……」
「消されたんだろ?」
 俺は確信に満ちた声でジュアンの回答権を奪った。「そしていずれ俺達の前にフォービドゥンが現れて勇者によって討伐された後、お前は俺達に口止めを要求するんだ。殺されたくなきゃ黙ってろ、ってな」
 クリスが、あるいは他の誰かが何らかの方法でフォービドゥンを討伐し、仮にその後レイチェルの予言通りフォービドゥンが出現しなくなったとしても、それを確認できるのは千年後だ。奴が永遠に消滅したとの確証が得られない現在の段階では、やはりアルバドを安全領域として確保しておく必要があると国は考えるだろう。
 ジュアンの返答は、「最善を尽くすよ」という曖昧なものに留まった。
 あまり和やかとはいえない空気を纏ったまま、二〇分ほど歩いただろうか。まるで商店街さながらの施設が連なった通路が終わり、俺達は再び広いホールのような場所に到達した。天井はエントランスホールを凌ぐ高さだが、壁に組み込まれた発光石が極端に少なくなり、辺り一帯は薄暗い巨大洞窟のような雰囲気へと一変した。人為的に整備されていた壁が途切れ、無骨な岩肌が剥き出しになっている。
 正面には衛兵に守られた大きな鉄格子の柵と扉があった。そしてその先には、こぢんまりとした家屋が所狭しと密集し、集落のようなものを成している様子が見て取れた。どの家も相当な築年数を思わせる木造だが、それぞれの窓には明かりが灯り、そこに人々の営みが存在することを示していた。
「お城の地下に……村!?」
 レイチェルが説明を求めるようにジュアンの顔を仰ぎ見たが、彼はそれには応えず、衛兵に開けさせた鉄格子の扉を無言でくぐった。俺とレイチェルは腑に落ちないといった表情のままジュアンの背に続くしかなく、永遠に陽の光の届くことがない鄙びた集落の土を踏んだ。
 水車小屋や養鶏小屋といった施設や人家を、物珍しげな目で眺めながら通り過ぎていった。目に入るものはどれもありふれた施設ながら、地下に存在するというだけで未知の世界に迷い込んだような心地であった。また、集落を形成する建物は、どれもちょっと地震が寄ればすぐさま倒壊するのではと疑えるほど老朽化が進んでいた。
 夜道のような小径を歩く道すがら、何か強烈な気配のようなものを感じ、俺はそれが向かってくる方向へと顔を向けた。そこには腰の折れ曲がった老婆が、杖を支えに立っていた。俺達のことをじっと見てくるので、俺は反射的に小さく会釈をした。
 だが老婆に反応はない。深い皺に埋もれた小さな目だけが、俺達の進む方向へと追随してくる。その視線に込められた意味を想像するなら、まるで不審者一行がおかしな動きをしないかと見張っているかのようだ。
 彼女の他にも、この集落の住民であろう人間と何人かすれ違ったのだが、俺達一行を迎え入れるその目は、皆一様に敵意と嫌悪に満ちていた。中にはあからさまに睨んでくる女性や、舌打ちを寄越してくる男もいた。年端もいかない子供までもが、あどけない顔に精一杯の敵意を込めて遠くから眺めてくるのだ。
「あたし達、めっちゃ嫌われてるみたいなんだけど」居心地が悪そうにレイチェルが言う。
「気にすんな」ジュアンは他人事のような口振りで返した。「嫌われてんのはおめえらじゃねえ。オレだ」
 その言葉の意味を、俺は間もなく知ることとなる。急な石階段を上りきった先に、その家はあった。ジュアンがノッカーを鳴らしたが、数秒待っても中からは何の応答もない。
「お留守?」
 レイチェルが首を傾げる横で、ジュアンは構わずドアノブを掴むと、何の遠慮もなく扉を開けた。玄関から真っ直ぐに続く短い廊下を大股で進み、「入るぞ」と遅すぎる断りを入れた時にはもう、ジュアンの手は廊下の突き当りの部屋の扉を開けていた。
「何だい、あんたはまた人の家に無断で上がり込んで」
 呆然と玄関で立ち尽くす俺達の耳に届いてきたのは、ややハスキーな若い女性の声。俺とレイチェルは顔を見合わせた。その女性とジュアンが何やらやりとりしている声を暫くその場で聞いていたが、レイチェルに行こうと促され、俺たちは遠慮がちに中へと進んだ。
 床が抜けるのではないかと不安になるくらい大きく軋む廊下をおそるおそる歩いた先の部屋は、真ん中に小さな丸テーブルが置かれた狭いダイニングキッチンのようだった。そのテーブルに、二十歳前後と思われる細い目をした女性が、頬杖をついて座っていた。陶器のような肌の白さが、彼女の頬のそばかすを強調している。食事中だったらしく、テーブルの上には食べかけのパンとジャムの瓶が置いてあった。
「……誰よ、あんた」
 彼女の漆黒の瞳が、じろりと俺を見た。突然現れた見知らぬ男女に対する警戒というより、驚きの色の方が強い。俺が名乗るより早く、ジュアンが一歩前に出て口を開いた。
「二人ともオレとクリスの友人だ。あいつが心配だって気持ちはこいつらも一緒だからな」
「友人? へえ……」彼女は何か珍しい生物でも見るような目で、しげしげと俺たちを観察した。皮肉げに片側の頬を吊り上げ、肩を揺する。「よくこんなところに連れてきたじゃないか。ただでさえ少ない友達を失くすつもり? 勿体無い」
 その言葉の意味が分からずジュアンの顔を見たが、彼は何かの感情を押し込めるように無表情で拳を握っただけだった。そして「ついて来い」といって踵を返し、部屋を出た。
「彼女は誰なんだ?」
 扉が閉まったのを確認してから、俺は小声でジュアンに訊ねた。「ヘラ」という彼女の名前を、彼は教えてくれた。続けてこう補足した。「クリスの幼馴染だ。性格は全然違えけどな」
「幼馴染」
「ああ」ジュアンは頷き、努めて何でもないことのように告げたのだった。「ヘラもクリスも、ここで生まれてここで育った。つまりこの場所は、ジャスティシア一族が暮らす秘密の集落ってわけだ」
 突然の暴露に思わず立ち止まってしまった直後、ちょうどジュアンが近くの部屋の扉を開けた。
 俺ははっと息を詰め、目を見張った。彼の肩越しに、見えたからだ。
「クリスっ!!」
 レイチェルがすかさずジュアンの脇を抜け、彼女に駆け寄る。
 俺はというと、のろのろとした重い足取りで、寝室と思しきその部屋に入っていった。壁際のベッドに横たわっているクリスが、眠っているようにも死んでいるようにも見えたからだ。
 俺は、そんな彼女の姿を認めたきり、寝室の入口付近で立ち止まったままそれ以上近付けずにいた。そこから見える生気の欠片も感じさせない青白い顔は、ディルクの剣に貫かれた時のものと全く変わらないままであった。あの時の恐怖に似た気持ちが蘇り、それが俺の足に絡みついて微動だにできずにいた。
「顔色は病人そのものだが、心配する必要は全くねえ。腹が減りゃ勝手に目を覚ます」
 軽薄な物言いは、ジュアンなりに気を遣ってくれてのことなのだろう。俺のすぐ横にある顔には笑みさえ浮かんでいた。
「クリス……」
 レイチェルが、クリスの枕元に顔を近付け呼びかける。都合の良い物語であれば、その呼び声に応じてクリスは目を覚ましたのだろう。
 しかし現実はそう容易く感動的な展開にはならないし、むしろこのまま眠り続けた方が、クリスにとって幸せなことのようであるらしかった。
 この時はまだ、そのようなことは知る由もなかったのだが。
「早く目を開けてほしいっていうお前らの気持ちも分かるが、多分こいつが起きた時には大変だぜ。大惨事だ」
「どういうこと?」
 壁に背を預けて腕組みをするジュアンは、俺とレイチェルの疑問の眼差しを受け、ゆっくりと俯きながら目を閉じた。眉間に刻まれた深い皺が、彼の苦悩を代弁しているかのようだった。
「死ぬほど嫌いなこの場所に自分を連れてきた犯人捜しがまず始まる。良くて半殺し、悪くて本当に殺されるかもな」
 オレが、と付け足して、ジュアンは溜め息とともにかぶりを振った。
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